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2021.09.06

川端龍子VS高橋龍太郎コレクション展

大田区立龍子記念館で行われる「川端龍子VS高橋龍太郎コレクションー会田誠・鴻池朋子・天明屋尚・山口晃ー」展の内覧会に行ってきました。ここにある写真は特別な許可を頂いたもので、写真の下手さの責任はCosにあります。

 川端龍子の絵が好きというほどではないけれど、いい絵をかくし、それと会田誠、鴻池朋子、天明屋尚、山口晃ときたらこれを逃すわけにはいかない。雨が降っていて交通の便がいいところでもなので、(ちょっと道にも迷い)やっと到着した。うちから行くのはちょっと大変かな。

 会場の入り口から入った瞬間に目に入る2枚の絵、どちらも見たことがある作品だし、特に正面に見える会田誠の「紐育空爆の図」は好きな絵だし、ここで会えたのはうれしかった。現実には行くことのなかった日の丸を付けた零銭(のような)メタリックな飛行機の軍団がニューヨークの空で∞を描き、華やかに飛行している。しかし、その絵はプラスチックのビール瓶ケースの上に敷かれたベニヤの上に載っている。絵の華やかさがその台の上にあることで全く違った儚さを表しているように思える。会田誠の華やかさと儚さ、それが彼の作品の良さでもある。

 



そんなことを思いながら視野に入っている左側の絵を見ると、川端龍子の「香炉峰」

 

 中国の香炉峰の上空を飛んでいる飛行機、機体後ろ側を透明にしていくことによって「飛行」を表現しているのだともいう。

この絵は以前にも見たことがあるけれど、その時には「うまく表しているなぁ」ぐらいの感想しかなかったのだけれど、会田誠の絵と並べることによって、今までは感じられなかった移ろいゆく儚さといったものが、絵から感じられた。

 別々に見ることで感じられなかったものがこの配置にすることによって浮かび上がってきている。

今回こうした絵の配置、見せ方で絵に対する印象が随分と変わっている。しかも?の上の部分だけのような展示室の構造もその効果を高めている。

(意図した本野は違っているかもしれないけれど)対比してその差を感じさせる、あるいは同調性を感じさせる展示は何種類かあり、たとえば、鴻池朋子の「ラ:プリマヴェーラ」の草原の中の少女のイメージのかわいらしさ

かわいらしさという視点では川端龍子の百子図

 

風の表現としての「爆弾散華」

そしてナイフの鋭さは「草の実」

と対比できるようになっている。しかも、単に比べるのではなく、それぞれの川端龍子の作品が鋭さを向けてくる。像を囲む少女たちの「百子図」が鋭いなんて思わなかった。

「草の実」がずかずかとナイフのように刺さってくるとは思わなかった。

一番奥にある3枚の仏像の絵と仏像。



3枚の絵のうち真ん中は天明屋尚の「ネオ千手観音」、そして川端龍子の「青不動」と「十一面観音」そして右側の写真が川端龍子が持っていたという「十一面観音菩薩立像」(右側に絵もはいっている)。ここまで来ると奈良時代、1940年、1958年、2002年という年の違いよりも同質性のほうが浮かび上がってきている。

 うちからはちょっと遠いけれど、期間中にもう一度行ってのんびり見てきたいと思う。

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