磯江毅=グスタボ・イソエ
9月に入ってからの忙しさで一寸でも何かあると美術館にいけなくなってしまうひびが続いている。
どうしても見たいと思っていた「磯江毅=グスタボ・イソエ展」に行ったのも閉幕を翌日に控えた2011年10月1日。
「真実の写実絵画を求めた」とあるけれど、以前、ホキ美術館で彼の絵を見たCosには単なる写実で済ませることのできない何かを感じたのだ。
「写実」というのはほんとうに難しいと思う。
写真に取って代わることが可能な写実であれば、絵画である必要はない。
そうした写真を取るのがどれほど難しく大変なことなのかCosにはよく分からないけれど、「写真のような」ということになれば、写真のほうがいいということにもなりかねない。
これだけ写真が発達して身近になった今、写真には決して描き得ないものをもった絵でなければ見たいと思わない。
磯江毅の絵にそれがあったかどうか・・・・Cosは彼の絵の中に所謂スーパーリアルの萌芽のようなものを感じた。
このイワシの絵も面白かったけれど、その意味では少し弱い気もする。
(いわしだし・・・∥xx;∥☆\(--メ))
Cosがオモシロイと思ったのはお皿の上に盛られた果物・・・そこに描かれている中に1つだけあるしなび始めた果物・・・一房の中の一粒だけのしなびかけたぶどうの粒・・・確かにしなびはじめているけれど、相変わらずのみずみずしさを感じさせる不思議。
ここが彼の写真に出せない絵画の良さと感じたのだ。
本当はどうなんだろう?
しなびてしまった果物じゃなくて、しなびはじめた果物のもつ雰囲気ってどうなんだろう?
そんなことを考えながらしばし彼のぶどうをじっくりと眺めてしまった。
(本当は他のところにも回ろうとも思っていた・・・・)この日は一寸風邪っぽかったので、本当は遠くまで外出しないほうが良かったんだけど、じっくりと彼の絵を堪能してしまった。
次の日から風邪で調子が悪かったのはそのせいだろうか?
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