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2007.02.14

アルフレッド・ウォリス

東京都庭園美術館で2007年3月31日までの

「誰も知らなかった アルフレッド・ウォリス展」をみてきた。

もともとCosは「素朴な味わい」という絵はあまり好きじゃない。「70歳から独学で絵を描き始めた」と聞いてもあまりみたいという感じはしなかった。
Cosが好きなのはどちらかといえば現代美術・・・その中でも奇をてらったものではなくごく自然に抽象的とでもいえるようなものが好きなのだが、このアルフレッド・ウォリスのパンフレットを見たときにも、Cosが見たいタイプの絵ではないと即座に思ったのだ。
だが・・・そのパンフレットの絵にどこか惹かれるものがあった。

わざわざ目黒まで見に行くほどではないと思いながらも「やっぱり見たいかなぁ」という感じがどうしても拭い去れないのだ。パンフレットの絵もチラッと見ただけなのに、どうしても頭の中に残っているのだ。Image002

というわけであまり期待もせずに見に行ってきた。

入ってみてショックを受けた。

確かに絵は素朴だし、テクニックとかいかにも絵を勉強してきた人とかという感じはもちろんしないのだが、その絵の前に立ってみるとしばらくそこから動けなくなってしまった。

特に会場に入って最初のほうに展示されている絵は陸上から見た海と船の絵。確かに素朴で海に対する憧憬があふれているように感じられる絵なのだが、絵をじっと見ているともっと深いところからウォリスの想いが伝わってくるような気がしてきた。

彼の想いがどんな思いだったのかはわからないのだけれど、涙があふれそうになってきた。

もちろん、ウォリスがそんな想いで絵を描いたかどうかはわからないし、Cos自身が今いろいろなことで精神的にきつい状態にいるからそんな風に感じたのかもしれないけれど、憧れと渇望がそこにはあるような気がしてきたのだ。

幸いなことに、そう感じたのは陸上から海を見た絵のときだけで、海から陸上を見た絵からはそういう感じはしなかった。

遠近法も、物の大きさも無視して描かれた絵はチラッと見ると稚拙な印象がないわけではないけれど、しっかりと眺めるとそこには素朴さとも違うものがある。

枠にとらわれているのではなく、自分の思いをそのまま絵にしたような自由さとでもいうのだろうか。決して「素朴」といった言葉で片付けられてしまうような単純なものではなく、彼は彼の想いを絵にするすべを知っていたということなのかもしれない。

立派なキャンバスではなく、その辺にある厚紙にかかれた絵、紙に穴が開いていたり、釘が打たれていたりするけれど、そこに描かれたのはぎっしりと詰まった彼の想い。

今回の展示は額縁もシンプルな木・・・というよりは木材・・・でできているものが多く、彼のあちこちに書かれた絵にいかにも似つかわしいものだった。

絵の好きな爺さんが家じゅうにある紙に絵を描いている、気が向くとその辺にある木箱や花瓶にも絵を描いているといった絵がほとんど。

庭園美術館も人がほとんどいなくて一人静かに絵を楽しむことができたのもとてもうれしかった。(美術館員以外)誰もいない展示室で一人で絵に向き合う贅沢さは何物にも変えがたいものがある。

このところ混んだところばかり行っていたから余計にそう感じるのかもしれないけれど、絵とじっくり向き合うにはやっぱり人が多いとだめなのだ。

庭園美術館はたまにCosの琴線に触れるような展示をすることがある・・・・行く前にはあまり期待していなかっただけにゆったりとウォリスと向き合ってきた時間はとても幸せだった。

決して派手でも豪華でもないけれど、一つ一つの一見素朴にも見える絵の中にはいろいろな思いが描かれていて、慈しみや悲しみがそこから伝わってくるような絵と一緒にすごすのがとても貴重なものに感じられた。


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東京都庭園美術館でアルフレッド・ウォレスを見たあとで、いつものように庭に出る。 [続きを読む]

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